2006年06月13日
「球団方式」にすれば、学校は劇的に変わる。
「北岡さんは、学校を変えたくないとお考えですか?」と高槻市教育委員会指導部のTさんに言われた。無論、変えたい。ただ、2学期制によって学校を変えると言われても、全く説得力がない。
どうやったらよりよく学校が変わるのか。特に高槻市は、悪平等な教育を行ってきたために、子どもを持つ家庭が市外へ流出しているというのは以前指摘したとおりで、「それを変える!」という姿勢を明確に内外に示すことは極めて重要だ。でなければ、高槻市の公教育が失った信頼を取り戻すことはできず、子ども達は帰ってこないだろう。
そこで私は、「球団方式」にすれば、学校は劇的に変わると教育委員会のTさんに申し上げた。
私のいう「球団方式」とは、プロ野球の各球団、あるいはJリーグの各チームのように、各学校を運営することだ。
まず校長あるいは校長候補は、子ども達や学区の問題点・課題を洗い出し、それを解決するための方策を考え、「こういう学校を実現したい」といった企画書・計画書を作成する。これを市や教育委員会などと検討して、ゴーサインが出れば、目標とする学校をつくるため、教師を選定し集める。場合によっては教師の「トレード」ということもありえるだろう。
教師は野球・サッカーのプロ選手のごとく年俸制とする。6月11日付の朝日新聞には、文部科学省が教員に時間外手当を支給することや、能力・業績を給与に反映させることを検討するとあったが、私は時間外手当には反対である。教師は単なる学校内労働者ではなく、教育の専門職・プロ教師なのだから、時間外手当はなじまない。
現在大阪府教委では「評価・育成システム」として、教職員の自己申告や面談などをもとに、校長が教職員の能力や業績を「S・A・B・C・D」の5段階で評価しているが(6月13日の産経新聞より)、教師への評価は、校長(教頭)・同僚・保護者・生徒からの、いわゆる「360度評価」にし、「授業は理解しやすいか」「板書は丁寧か」「声は聞き取りやすいか」「教科書の範囲を全部教えてくれるか」「学力はついたか」「生徒を愛しているか」「自分をしっかり見てくれているか」「自分に対して的確な評価をしてくれるか」など生徒の満足度も測る。私のいた進学塾ではこのような評価をされ、それが給与に反映された。一般企業でも、顧客満足度は重要な尺度だ。
これとは別に、学校全体の「業績」を、教師の給与に反映させる。吉田康人さんの公約である「公立学校選択制」を導入し、生徒が1年ごとにでも、自由に生きたい学校を選べるようにする。それによって、生徒が減った学校、保護者からの苦情の多い学校、当初設定した問題が解決できない・課題が達成できない学校は、「業績が下がった」とみなし、その学校に勤務する教員の給与を一律カットする。逆に「業績」の上がった学校の教員の給与は一律アップする。そうすれば否が応でも全教職員が協力し、学校の「業績」を上げようと努力するだろう。
こうした仕組みを導入すれば、「特色ある学校づくり」が間違いなく実現する。学期制度などは校長の裁量に委ねればよい。もし意欲やビジョンのある校長や校長候補がいなければ、校長を民間などから公募すべきだ。
その結果、高槻市のことだから、校長が「この校区には、共産党・中核派・日教組の子弟や社民党の支持者が多いので、徹底的に社会主義・共産主義的な教育を実践し、生徒の成績については一切の評価を与えず通知表は廃止。校長・教頭も他の教職員も、すべて同じ額の給与にします」ということも起こりえるかもしれないが、それも保護者と生徒の全面的な賛同を得られるなら良いだろう。
ま、それは冗談として(笑)、この「球団方式」と「公立学校選択制」の導入、そして小中高一貫教育を行う公立の「エリート校」を設立すれば、間違いなく高槻市の公教育は劇的に変わる。
教育委員会の皆さんが「学校を変えたい」「特色ある学校づくりをしたい」と真剣にお考えなら、是非これらのことをご検討いただきたい。
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歪んだ教育現場を批判するあまり、さすがにそれは行きすぎだと思うところがありますので指摘しておきますね。
評価育成システムやその他の「評価」を給与に反映するという件です。
ご存じの通り、今私は「困難校」と呼ばれていた学校に勤めています。過去形で書いたのは、ここ数年で勤務校は劇的な変化を遂げ、ほんとに落ち着いた学校になりました。
3年前、この転勤を受けたときの私の葛藤とその後の奮闘はご存じの通りですが、しかし「業績によっては給与が下がる」という恐れが無かったから思いきっていろいろな改革に取り組めたと言っても過言ではありません。
いや、何が言いたいのかというと、教師や学校を子供が選べ、かつその「評価」が給与に反映するのであれば、私も教師として生徒を選びたいということです。そしていわゆる困難校で奮闘することは単なる貧乏くじですから、誰もが避けるでしょう。私も間違いなく避けます。
学校までは行かなくとも、担任するクラスも、「問題のないクラス」にばかり希望が殺到し、指導困難なクラスは担任のなり手もなくなり、例えば転勤してきて学校の様子を知らない先生や非常勤講師に押しつけるしか方法はなくなります。「よっしゃ、俺がなんとかしてやろう」だなんて思ったら損です。
また、保護者から反感を買おうが子供から嫌われようが、守らなければならぬこともあるわけで、比較的保護者と上手くやっている私であっても、保護者からの評価が給与に反映するのはまっぴらごめんです。給与のために保護者の顔色を伺うは、やはり嫌です。
私は「特色ある学校作り」そのものが不要だと思っています。極論を言えば、高槻の教育は特色があったじゃないですか!隣接の市町村とあまりにも違う!と批判され続けてきたことからも解るように、公教育に求められているのは「特色」ではなく、「普遍性」です。行き過ぎた性教育や左傾化した歴史教育、通知表や運動会に表れる悪平等を批判するのも、その「普遍性」から外れるからだと私は思います。
「評価教育システム」そのものの無意味さや、長期休業の扱いについても意見がありますが(これは子供側、教師側両方の視点から)、また次の機会にします。
まず、この「球団方式」実現については、現状とのギャップが大きすぎるので、一足飛びにはいかないでしょう。かっしゃん先生ご指摘のとおり、高槻の「行き過ぎた性教育や左傾化した歴史教育、通知表や運動会に表れる悪平等」という過去と、さらに2学期制という意味不明なものが導入されつつあることへのアンチテーゼとして書きました。ゆえに「行きすぎ」なのは間違いありません(笑)。
ただ、360度評価というのは、保険でもあると思います。校長からは評価されないけれど、子ども達からは絶大な評価を受けている、といった場合、校長という上司からの一方的な評価で給与が決定されないわけです。
私が働いていた進学塾では、子どもの顔色を窺う講師よりも、子どもに媚びず授業をきっちりと教える講師の方が、子どもから高い評価を得ていました。学校と塾ではやはり子どもの意識が違うと思いますが、やってみれば、案外まともな評価が子どもや保護者から出るのではないかと思っています。
ご心配されておりますが、かっしゃん先生のように、「困難校」を劇的に変化させられた先生ならば、当然大いに評価されるべきであると考えます。そういった場合問題になるのは、評価の基準ですね。最初から「この困難校を変えなければならない」、「この問題のあるクラスを何とかしよう」という認識があり、それが課題として設定されていたかというような。
そうすれば、むしろ逆に「困難校を改革するれば、給与が上がる」ということになるかと思います。であるなら、果敢にそれに挑戦する先生も出てくる可能性はないでしょうか。
かっしゃん先生の死に物狂いの奮闘と、そこで得られた成果は、成功事例として他校にも伝播していくはずです。「業績」を上げるためには、成功事例を取り入れるというのが、手っ取り早いやり方ですから。研修にかっしゃん先生が講師として招かれ、「かっしゃん方式」の教授をされる指導的な立場になられることも大いにありえると思います。
世の中には完全な評価システムや制度というものはないと思いますが、「子どものために一生懸命がんばったら、知らぬ間に給料が上がってた」というように、誠心誠意努力した先生が報われるようなものができたらいいと思っています。そこまでのシステムを作り上げるには、一足飛びでは無理でしょうし、教師や保護者の意識も徐々に変えていかねばなりません。
>私は「特色ある学校作り」そのものが不要だと思っています。極論を言えば、高槻の教育は特色があったじゃないですか!隣接の市町村とあまりにも違う!と批判され続けてきたことからも解るように、公教育に求められているのは「特色」ではなく、「普遍性」です。行き過ぎた性教育や左傾化した歴史教育、通知表や運動会に表れる悪平等を批判するのも、その「普遍性」から外れるからだと私は思います。
そのとおりですね!「特色ある学校作り」という言葉に、まやかしがある。無理やり特色を出しても意味がないですよね。
高槻市民としては、特色よりも、かっしゃん先生のおっしゃるとおり、まずは「普遍性」を取り戻してほしいです。